学校法人山陽学園130周年記念式典を行いました

10月18日(火)、岡山シンフォニーホールにおいて、学校法人山陽学園創立130周年記念式典を行いました。

 

学校法人山陽学園は、山陽学短期大学付属幼稚園、山陽女子中学校・高等学校、山陽学園短期大学、山陽学園大学・専攻科、山陽学園大学大学院で構成されている総合学園です。

 

式典の開始前には、児童・生徒による教育活動の発表を行いました。

附属幼稚園児の歌と遊戯や、山陽女子中学校・高等学校吹奏楽部とMusicコース生徒の演技・ピアノ演奏などを行いました。

 

幼稚園児の遊戯

高校生の演技

高校Musicコース生徒によるピアノ演奏

 

式典では、理事長式辞、来賓祝辞のほか、特別映像「山陽学園130年のあゆみ」の上映や、「未来に向かって」スピーチ、学園歌合唱などを行いました。

「未来に向かって」スピーチは、園児・生徒・学生が舞台に立ち、未来への言葉をつなげていくスピーチです。

 

理事長式辞

特別映像「山陽学園130年のあゆみ」

「未来に向かって」スピーチ

学園歌合唱

 

山陽女子中学校・高等学校新校舎建設に始まり、山陽学園創立130周年記念事業は、今後の山陽学園の発展にとって大きな転機となりました。

130年間、多くの人の支えがあり、いまの山陽学園があります。

130周年記念式典にも、来賓・同窓生をはじめ、多くの方々が参加してくださいました。

本当にありがとうございました!!

これから150周年、200周年を迎えられるようより一層励みますので、これからもどうぞよろしくお願いします!!

 

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NHK「あさが来た」モデルの広岡浅子さんが、105年前の山陽学園で講演していました
NHK連続テレビ小説「あさが来た」のモデルとなった広岡浅子さんが、105年前に山陽高等女学校で講演していました。
山陽高等女学校とは、山陽女子中学校・高等学校の前身の学校です。

明治四十三年、広岡浅子さんは山陽高等女学校を訪れ、講演されていることが、当時の校誌「みさを」に記録されていました。
テーマは、「向上」。
「私たちの小さいときには学校がなかったものですから、よい学問も受けたものではございません。」
「私の若年にあっては、(女性の)読む書物を挙げますれば、百人一首の歌、女大学即ち貝原益軒先生の教の書などで、他は如何にしても学ぶことができません。」
などと、女性が学ぶことを制限されていた時代のようすを顧み、
「皆様も益々奮闘して、立派な婦人となる様に勤めなければなりません。」
と励ましの言葉を送ってくださっていました。

このことをテーマとした授業を、高校一年生の「礼法」の授業で取り扱う予定です。
上代淑先生だけでなく、新島八重さん、広岡浅子さんの講演の内容をもとに、女子教育について考えていきましょう!!

校誌「みさを」の中の記録

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旧本館落成当時の映像(1961年)
1961年山陽女子中学校高等学校旧本館完成当初の映像です。



校門前「大道」電停からの通学風景、本館落成直後の様子。新しく完成した職員室、応接室、音楽室での授業。



事務室、職員室、廊下での生徒、登校風景、文化祭の様子など。まだ4階の一部が未完成。


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上代淑先生ご昇天日
11月29日は、上代淑先生のご昇天日です。



上代淑先生は、1959(昭和34)年のこの日、88年の生涯を終え昇天されました。
1889(明治22)年の着任以来、留学も経験しながら、70年にわたって山陽学園を支え続けた生涯でした。
死の15日前まで教壇に立ち、中学一年生に「勤勉」、中学二・三年生に「忠実」について教えていたといいます。
また死の五日前にも、病床の枕元で同窓会を開かせたというほど、常に生徒、学園を第一に思ってこられた上代淑先生。
その最期の言葉は、「ありがとうございます。」という感謝の言葉であったといわれます。

何事にも感謝し、最後までその姿勢を貫いた上代淑先生を偲んで、「感謝の生活」の実践について述べておられる訓話集の一節をご紹介します。

・・・明るい生活、明るい世界をつくるのに最も必要なものは「感謝の生活」でございます。「汝等事毎に感謝せよ」との教えがございます。毎日毎日を感謝の心で送るという事は明るい生活をするという事でございます。それと同時にその感謝の心を発表することも大切でございます。(中略)ただ一つの小さい感謝の言葉が、どんなに人々の心を明るくするか分からないと思います。また、どんな知らない人にでも柔らかい温かい心の一端を表す時は、信愛な環境つまりその人の明るい心持をよび起こすことができると思います。

感謝の一言をもらうと、人は誰でも嬉しいものです。どんな小さなことでも自分の今の状況に感謝し、普段周りの人に伝えられない感謝の言葉を思い切って伝えてみましょう。

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「八重の桜」の新島八重が山陽学園で講演会を行っていました

(クリックして拡大)
NHKの大河ドラマ「八重の桜」をきっかけに広く知られることになった山本(新島)八重(1845-1932)。八重は福島の会津出身で、激動の明治維新を生き抜き、夫である新島襄(1843-1890)と共に同志社の教育に携わり、新島襄死去後は日本赤十字社の篤志看護婦として日清・日露戦争に従軍しました。

1909年5月、新島八重が山陽高等女学校(山陽学園の前身)を訪問し、「白虎隊につきて」というテーマで講演しています。当時京都在住であった八重がわざわざ岡山まで来たのは、新島襄と上代淑先生との関係です。新島襄はは京都で同志社(現同志社大学)を設立したキリスト教布教者。同志社で学び、襄より洗礼を受けた金森通倫(ポール金森)が山陽英和女学校(現山陽学園)設立に関わった岡山協会の牧師であったことや、上代淑先生の父、知新が新島襄と関わりがあったことから、繋がりがあったものと思われます。

講演時、すでに新島襄は亡くなっていましたが、「故新島襄夫人」という肩書で約40年前の出来事をリアルに語っていました。一般的に白虎隊の悲劇が世に伝わったのは、白虎隊生き残りの飯沼貞吉が晩年に口を開いた昭和初期と言われています。それより以前に岡山で女子学生を前に激動の歴史の一場面が語られたということに歴史的意義を感じます。

新島八重の山陽高等女学校での講演の記録は、『美さを』第42号(1909年7月、山陽高等女学校行余会発行)に書いてあります。
山陽女子中学校・高校では、この史料を使いながら戊辰戦争とキリスト教、そして岡山の山陽学園、これらの繋がりをテーマに歴史の特別授業を計画しています。


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47年前の門田屋敷カラー写真【今昔比較】


山陽女子中学校・高等学校の資料庫に保管してあったカラースライドのうちの1枚です。現在と同じアングルで撮影したものと比較してみてください。(画像をクリックすると拡大されます)

1965年当時はまだビルやマンションがほとんど見られず、左上の岡山県庁や、再建中の岡山城天守閣の様子が確認されます。道路を走る電車は単車の小さなもので、現在の車両と比べるとその大きさがよくわかります。

また、県庁右には、戦前、池田家に寄贈された岡山市公会堂の姿が見られます。公会堂はこの数年後に解体されています。

当時と変わらない姿が見られるのは、中央左寄りの「氷」と書いた木造二階建ての民家、左端の博愛会門田屋敷クリニック(当時は博愛会第二病院)、と限られたものとなっています。

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山陽学園は全国7番目に古い「辰年生まれ企業」です



東京商工リサーチのホームページにおもしろい記事が掲載されていました。
「“辰年”生まれの法人は、全国9万7,548社」

数多くある辰年生まれ企業の中で、7番目に古い1904年3月に記録されているのが山陽学園。
しかし、山陽学園の前身である山陽英和女学校が創立したのは1886年。この年の干支は犬・・・。

ではなぜ「辰年生まれ企業」?

東京商工リサーチの「設立基準年」は法人格を持った年としています。よって、山陽学園(当時は山陽高等女学校)が財団法人となった年である1904年の辰年が「設立年」とされています。岡山県で2番目、全国で7番目に古い「辰年生まれ企業」。

さりげなく伝統の重みを感じる記事ですね。

学校にはちょうど、1904年に撮影されていた卒業生の写真が残されていました。撮影場所は、当時学校のあった徳吉町。全員和服を着ています。


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創立125年を迎えて−岡山最古の女子校として

1886(明治19)年11月1日、33名の新入生を迎えて山陽英和女学校は開校されました。この時行われた入学試験の日が10月18日。山陽学園ではこの日を創立記念日としています。
山陽英和女学校が設立された当時は時代が大きく変化している最中でした。設立される約20年前、1867年に江戸幕府が滅亡。明治政府が発足されました。ペリーの来航をきっかけに始まった外国との貿易は、200年以上も鎖国体制を続けてきた日本に新しい道具、技術、考えなどをもたらしました。「文明開化」と呼ばれ、欧米の制度や文物が積極的に取り入れられた時代でした。

近代化を進めるにあたり、国民の知的水準を高めることが必要だと考えた明治政府は、1872(明治5)年、「学制」を公布しました。男女の別なく小学校教育を受けさせることにしたのですが、女子の中等教育については規定がなかったため、男子の中学校に少数の女子生徒が通ったり、女子のための塾が開かれたりする状況がしばらく続いたと言われています。

1870〜1880年にかけておこった「自由民権運動」は、政府に対して国会の開設、憲法の制定などを求めて全国的な運動に広がりました。岡山県でもこの運動に参加する人々が多くいたと言われています。政府は自由民権運動を取りしまると同時に、女子教育に対しても消極的な態度をとりました。

このような動きのなか、岡山県の山陽新報(現在の山陽新聞)に「女子中学校ノ設立ヲ望ム」という投書が掲載されました。男子の進む中学があるのに女子にはない……私塾だけでは不十分……速やかに女子中学校を設けよ、という主張でした。このような声にこたえたのがキリスト教系の私立学校でした。政府(国)が女子教育に対してして消極的であったのに対し、私立女学校はさかんになったのです。

江戸幕府の間禁止されていたキリスト教は明治になって解禁され、外国からやってきた宣教師による布教活動がさかんになっていました。キリスト教系女学校の設立もその活動の一つでした。岡山県では1885年、高梁市の順正女学校が初めて設立された女学校でした。1886年11月、岡山市中山下に山陽英和女学校が開校されたのです。

山陽英和女学校の設置者である石黒涵一郎は開校式に参加する予定でしたが、明治政府の条約改正案に反対するため出席できませんでした。この頃、幕末に結ばれた外国との不平等条約を改正することが日本の課題の一つでした。生活様式を外国に合わせ、交渉を有利に運ぼうとしますが、簡単に改正することはできませんでした。諸外国との条約改正が実現できたのは1911年のこと、外務大臣小村寿太郎によってようやく長年の課題が達成されました。

山陽英和女学校が開校したばかりのころ、専任の教員はたった一人、西山小寿先生だけでした。当時のキリスト教主義の学校は、ほとんどが伝道を目的としたミッション・スクールで、伝道組織から何らかの援助を受けていました。しかし、本校の場合は特にこの西山小寿先生の主張で、教会に経営をゆだねることをあえてしませんでした。日本の女子教育は日本人にふさわしいものであるべきだと考えたためです。

西山小寿先生は台所で生徒と昼食を共にしたり、休み時間には生徒と狭い庭を散歩したりしていたそうです。その時には生徒と英語の歌を歌い、数学の授業でも「ネッキスト(next)」「オールライト(all right)」などを連発し、生徒が英語に慣れるよう努めました。開校当初から教科の中でも英語に最重点がおかれ、岡山教会の外国人宣教師であったケリー夫妻らも多忙な時間を割いて英語などの授業を無償で担当したと言われています。

1889年9月、18歳で本校へ赴任した上代淑先生は、その後88歳で現職校長のままお亡くなりになるまで本校にお勤めになりました。上代先生は本校着任後一旦辞職し、アメリカのマウント・ホリヨーク大学へ留学。帰国後、本校に再び着任し、英語・博物など七科目を受け持ちました。上代先生は英語の授業で毎時間単語テストを行い、徹底的に辞書をひくことを教えました。

明治末年の山陽高女の評価は、生徒自治と英語・音楽教育に優れているというものでした。上代先生の教授法に基づいて築かれた歴史は今日の山陽女子でも受け継がれています。

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写真1枚目 日本組合岡山教会の宣教師たち
写真2枚目 最初の入学生
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120年前の卒業式
3月1日(火)は山陽女子高校の卒業式です。

学校に残された古い写真の中に、「第1回卒業生」というキャプションのついたものが残されています。今から120年前の1891年(明治24年)に撮影されたものです。

写真の後列左から3番目には安部磯雄(当時岡山教会牧師)、後列右端には若き日の上代淑先生が映っています。

山陽女子高校の前身である山陽英和女学校は1886年(明治19年)に開校し、最初の卒業式が行われた1891年には18名を送り出しました。

当時の卒業式は、来賓のあいさつや送別の辞などに加え、卒業生による卒業論文の発表なども行われました。

120年前の第1回卒業式以来続く山陽の伝統。卒業を迎える生徒たちの前途を心から祝福します。

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